もしも、君と出逢っていなかったら。
        ときどき、そんな事を考えることがある。

        もしも君と出逢っていなかったら。そして、もしも君があの日のあの夜の「さよなら」を受け入れて、俺を追いかけてくれなかったとしたら。きっとどう転んでも
        今より「良い」と思える人生は送っていなかっただろうし、それ以前に、とっくに命を落としている可能性だってある。

        それでも、最悪な人生を送るのも落命するのも、それは自業自得だと。
        それだけの罪を犯してきたのだから当然だと。
        すこし前の俺なら、それはそれで仕方ないことだと考えたけれど。


        でも―――






       
 as time goes by







        「桜の花も素敵だけれど、牡丹で花見というのも、いいものだねぇ」



        発端は、赤べこの常連客のそんな台詞だった。
        東京が江戸と呼ばれていた頃から、境内にある牡丹畑が名物の神社があって、そこが今、見頃を迎えているらしい。
        「百花の王と言うだけあって、ひとつひとつの花が大きくて見事で・・・・・・それが一斉に咲くものだから、もう夢みたいに綺麗な景色なんだよ」
        つい先ほど見てきたばかりと言うだけあって、うっとりと語る情景はあざやかで、居合わせた他の客たちも「それは一見の価値がありそうだ」と話に引き込まれた。
        そして、一番真剣に耳を傾けていた燕の瞳がきらきら輝いているのを、弥彦は見逃さなかった。

        「燕がさ、牡丹見物に行きたがってるみてーなんだけど」
        そう前置きしてから、弥彦が神谷道場で客の台詞をそのままに繰り返すと、薫と門下生の女子たちも、燕と同様の反応を示した。
        件の神社へは少しばかり距離があるが、たくさん歩くのは足腰の鍛錬にもなる。更には、道場の皆で出かけるという名目にすれば、燕も店を抜けやすいだろうとい
        うことで、道場をあげての「牡丹遠足」を敢行することになった。


        そして今日。幸いにも晴天に恵まれ、緋村一家と弥彦と燕、それに門下生たちは、早い時間に道場を出発した。陽炎の立ちそうな晩春の温気のなか、頬を
        上気させながらわいわい歩き、到着した神社は、話に聞いたとおり―――いや、話以上に見事な花盛りである。

        艶やかな赤紫、高貴なたたずまいの白、優しげな淡紅など、様々な色の牡丹が、美しさを競いあうかのように咲き誇っている。
        両手ですくってもこぼれそうなほどの大輪の花が、春の微風に揺れる様は、まさしく、夢の中の光景のようだった。
        場所が場所だけに、桜の下での花見のように飲み食いはできないが、優美な牡丹とうららかな陽光、どこからか聞こえてくる小鳥の歌声も相まって、参詣
        客たちはこの場が醸し出す雰囲気そのものに酔いしれる。
        一行の中で最年少の剣路も、はじめて目にする牡丹畑に興味津々な様子で、大きな花をじっと覗きこんで「けんじのかおよりおっきい!」などと嬉しそうな
        声をあげている。それを見る周りの者たちも、思わず頬をほころばせた。


        たっぷり散策した後は河原のほうへと移動して、昼食の弁当を広げた。薫と燕が用意した牡丹餅まで皆できれいにたいらげたのち、子どもたちは腹ごなしだ
        とばかりに、鬼ごっこに興じ始めた。
        弥彦や燕、年長の門下生たちに監督を任せて、剣心と薫は荷物番に残る。遠目に眺めていると、最近は薫の代稽古も立派に務めるようになった弥彦も、年
        下の子どもたちに混じって鬼ごっこに参戦しているようだ。
        「すっかり大人になったかと思ったけれど、そうでもないみたいね」と、薫は目元をゆるめる。「そのようでござるなぁ」と答える剣心は、薫の膝を枕にくつろい
        でおり、こちらも完全に子どもに戻ったような有様だった。

        時間が、いつもよりゆっくり流れるような、春の午後。
        水色の空には薄い雲がたなびき、小鳥のさえずりに、子供たちの歓声が重なる。

        薫は時折、剣心の髪を指で梳きながら、ぼんやりと剣路たちが駆け回るのを眺めていたが―――



        「この調子なら、大丈夫かしら・・・・・・」



        不意にこぼれたつぶやきを、剣心は聞き逃さなかった。
        膝に乗せた頭を動かして、「何がでござるか?」と尋ねたが、薫はその問いには答えず、良人の額をちょんちょんと指でつつく。

        「そろそろ起きて」
        「おろ?」
        「おろ、じゃなくて。こんな格好、あの子たちに見られたら恥ずかしいでしょ?」
        「別に、恥ずかしくないでござるが」と返したら、今度はむぎゅっと鼻をつままれた。まぁ、子どもたちにひやかされて、きまりの悪い思いをさせるのも申し訳
        ないしなと、剣心は大人しく身を起こす。

        「何が、大丈夫なのでござるか?」
        改めて聞き返すと、「この前、操ちゃんから手紙が届いたでしょう」と、直接には関係なさそうな答えが返ってきた。
        「それにね、『今年の夏は京都に来られますか』って書いてあったのよ」


        祝言を挙げた年、剣心と薫はお盆に、京都へと足を運んだ。第一の目的は巴の墓参りだったが、葵屋の面々はふたりの訪問をたいそう喜び、歓待してくれ
        た。剣心は渋ったが、比古師匠に結婚の報告もしに行った。
        そんな風に京都へ行くことは夏の恒例になりそうだったが、次の年、薫が身ごもった。産み月はちょうど盆のころ、八月である。そんなわけで剣心と薫はそ
        の年、東京を離れることができなくなったのだが、墓参りは蒼紫と操が「かわりに行っておく」と申し出てくれた。そして、翌年以降も同様に、墓参は彼らに任
        せていたのだが―――

        「操ちゃん、今年は剣路を連れてこられないか、って言うのよ」
        「ああ、大丈夫そうとは、それで・・・・・・」
        ようやく話が見えてきて、剣心は得心して頷いた。


        ありがたいことに、剣路はこれまで大きな病気にかかることもなく健康そのものに育っており、最近はすっかり足も強くなった。今日の遠足も、年長の門下生
        たちに負けるものかと、頼もしい足取りでずんずん歩いて、疲れた様子も見せない。
        とはいえ、幼子を連れての旅は大変であろう。操もそこは承知の上で「なんだったら途中まで迎えに行きます」とまで書いてきたらしい。

        「そこまで言ってくれるとは、破格の待遇でござるなぁ」
        「まあ、つまりは『はやく剣路くんに会いたーい!』んですって」
        操がそう言って身をよじらせるのを、その目で見てきたかのような薫の口ぶりに、剣心は笑ってしまった。たしかに、操がそう言う姿は容易に想像できる。
        「翁さんもすごく会いたがってるらしくて・・・・・・『緋村くんと薫くんの子ということは、儂にとっても孫みたいなものだから』なんて言ってるそうよ」
        これまた翁らしい物言いに剣心は笑ったが、彼らがそう思ってくれていることが、嬉しくてたまらなかった。

        操も翁も、きっと葵屋の他の面々も、剣路の誕生を心から喜んでいて、早く会いたいと望んでいてくれる。自分は天涯孤独の身で、薫も両親を亡くしてい
        て―――だからこそ、血縁を超えて家族のように親しく接してくれる仲間の存在は、何物にも代えがたい。

        「うん、翁殿には世話になったし、今年あたり剣路を連れて行くのもいいかもしれないでござるな」
        「そうね、わたしも久しぶりに操ちゃんたちに会いたいし!」と、顔を輝かせてから、薫は少し声を落として「それに、そのうちふたりめを授かるかもしれない
        し・・・・・・そうなると、また足が遠のいちゃうものね」と言って、恥ずかしげにうつむく。思わず勢いこんで「それは確かにそうでござるな!」と同意すると、頬
        を染めた薫に、着物の袂で叩かれた。
        その仕草と初々しい表情に、出逢った当時の、髪にリボンを結った少女の頃の面影が重なり、剣心は目を細めて「・・・・・・不思議なものでござるなぁ」と、
        しみじみ呟いた。


        「不思議って、何が?」
        「薫殿、あの時言ったでござろう?拙者を、絶対京都には行かせない、と」
        「・・・・・・あ」


        それは、ふたりが出逢った年のこと。
        京都で暗躍している志々雄真実の暗殺を依頼するため、道場を訪ねてきた大久保利通に、薫はきっぱり「私達は絶対に、剣心を京都へ行かせません」と
        言い放った。
        維新三傑の最後の一人に対しても臆することのない、まっすぐな眼差しの強さを、剣心は今もよく覚えている。

        けれど―――それから一週間後、剣心は薫のもとを離れ、独り京都へと旅立った。
        それが、今生の別れになるはずだった。


        「それが今、こんなふうにふたりで京都に行く相談をしているのだから、人生とは不思議なものだなぁと。そう思ったのでござるよ」


        そのまま続けて「あの時は本当にすまなかった」と言ってしまいそうになったが、すんでのところでそれを飲みこむ。
        そう、ちょうどこの時期。五月十四日の辺りになると、暦を目にしては罪悪感が首をもたげてくる。
        しかし数年前、薫に「もう謝らないで」と諭されて以来、あの夜の別離について、謝罪の言葉を口にするのは、やめにしようと決めたのだった。
        もし何か伝えるとしたら、それは謝罪よりも「あの時追いかけてきてくれてありがとう」と、感謝の言葉を伝えるべきなのだ。

        「そうよね、あの時、わたしも弥彦も左之助も恵さんも、絶対に行かせるものかって思ったわ。実際、大久保卿にそう宣言したくらいだし・・・・・・でも」
        あの日のことを思い起こしているのだろうか、薫はふっと遠いところを見るような目をして。
        それから、小さく首をかたむけて剣心の顔をのぞきこんだ。



        「わたし、今はね。あの時剣心が京都に行ったことを、よかったなぁって・・・・・・そう思えるの」



        予想外の言葉に、剣心は虚をつかれてぽかんとする。
        だって、あの夜の薫の泣き顔は、今もはっきり目蓋に焼きついているのに。俺の名を呼ぶ、肺腑をえぐるような悲しい声も、まだ耳の奥に残っているのに。
        なのに何故、あんなに辛かったはずの、傷ついたはずの薫から、こんな言葉が出るのだろう―――
        しかし、薫の発言には続きがあった。



        「剣心が京都に行って、志々雄真実の『国盗り』を阻むことができて、本当によかったなぁって」



        それは―――それはたしかに事実だが。
        なぜ改めて、そんなことを思ったのか。真意をはかりかねて、剣心は物問いげに首をかしげる。

        「だって、そうじゃないと、今頃この国は大変なことになっていたんでしょう?大きな戦争が起きていたかもしれないし、そうなると、剣路みたいな子どもたち
        が笑って過ごしたりできない、辛い世の中になっていたかもしれないんでしょう?」
        「・・・・・・あ」


        以前は、そこまで考えが及ぶ余裕が、薫にはなかった。
        「このままでは日本が大変なことになる」と大久保卿たちに言われても、それでも剣心を人斬りに戻らせたくなかったし、危険な目に遭わせるのも嫌だっ
        た。だから絶対に、京都には行かせたくなかったのだ。

        けれど、時は流れて。
        剣心と夫婦になった頃から、道場には薫より年下の門下生たちが通うようになり、更には剣路を授かった。
        子どもたちと触れあううちに、我が子の成長を見つめるうちに、自然と、この子たちの未来を守りたいと思うようになった。彼らが理不尽に傷つけられること
        なく、いつも幸せに笑っていられるような―――この国が、そういう国であればよいと、願うようになった。

        そしてようやく、実感できた。
        剣心の闘いは、その為の闘いだったのだと。
        弱いものが虐げられるような世にしないために。あの時、命を賭して闘ったのだと。


        「・・・・・・あっ!誤解しないでね、これってあくまで結果の話だからね?!剣心は不殺を貫けたし、みんなでちゃんと東京に帰ってこられたから、だからこんな
        ふうに『よかった』なんて思えるんだからね?!」
        「いや・・・・・・大丈夫、わかるでござるよ。薫殿の言いたいこと、拙者も、わかるでござる」


        剣心は頷きながら、、京都に向かう途中目撃した、新月村の惨状を思い出していた。
        弱肉強食がまかり通り、暴力によって支配された村。あれはまさしく、志々雄が作ろうとしていた国の縮図だった。もしも、あの闘いで生き残ったのが志々雄
        だったら、日本という国全体が、新月村のようになっていたかもしれない。

        あの地で会った少年・栄次の姿が脳裏によみがえる。
        肉親を奪われ、復讐の衝動に駆られ、暴力の連鎖に陥りかけた少年の、絶望の淵に立った昏い目を。


        もしも今、目の前でのびのび走り回っている子どもたちが、そして何より自分たちの子どもが、そんな荒んだ世界に投げ出されるなど、想像すらしたくない。
        きれいな花を愛でて、おいしいものを食べて、自由に駆け回って遊んで―――子どもたちにはそんなふうに、平和でなんの憂いもない日常を送ってほしい。
        そんな世界で生きてほしい。

        「この目に映る人々を全て守りたい。苦しんでいる人、悲しんでいる人の力になりたい。人々の幸せを守りたい」と、それはずっと昔から思っていたことだけ
        れど。
        時を経て、人の親となった今は、その願いはより明確なものとなった。薫もきっと、同じように感じているのだろう。


        そういう意味では確かに、あの時京都に行ってよかったと―――
        ―――ん?

        いや、ちょっと待て。
        と、言うか、そもそも・・・・・・



        「そもそも、拙者が志々雄との闘いで死んでいたりしたら―――いや、それ以前に、薫殿が拙者を京都まで追いかけてこなかったら・・・・・・剣路は、この世に
        はいなかったのでござるな」



        はた、と。重大なことに気づいた剣心は、真剣な眼差しで妻を見つめる。
        薫も、そこまで考えたことはなかったようで―――すっと表情があらたまる。


        「・・・・・・言われてみれば、そのとおりね」
        「・・・・・・それは、すごく怖いでござるな」
        「ほんと、やだ、すっごく怖い!」
        ぞわっと立ち上がった寒気を振り払うように、薫はぶるっと勢いよく首を振った。
        「よかったぁ!ありがとう剣心!無事でいてくれて!」
        「いや、拙者じゃなくて薫殿のおかげでござるよ!追いかけてきてくれてありがとうでござる!」
        それからふたりは、まじまじと真顔で見つめ合って―――やがて、どちらからともなく、晴れやかに笑った。



        「・・・・・・薫殿、操殿に返事を書いてくれぬか?お言葉に甘えて、家族でお邪魔します、と」
        「了解!操ちゃんも翁さんも、蒼紫さんだってきっと喜ぶわ」
        はて、彼が喜ぶとすれば、一体どんな顔をするのだろうか。剣心がいささか失礼な想像をしていたら、「かぁちゃー!」と元気な声が近づいてきた。そちらに
        首を巡らすと、放たれた矢のような勢いで駆けてきた剣路が、薫の膝の上に飛びこんだ。

        「これ、きれいなの、かーちゃにあげる!」
        そう言って満面の笑顔で差し出したのは、燕と一緒に作ったのだろうか、野に咲く花を集めた、小さな花束。
        「わぁ・・・・・・すっごくきれい!ありがとう剣路!」
        「それでね、これは、あたまにつけて」
        先程神社で目にした白牡丹によく似た色の、たおやかな白い花を選んで、目の前にかざす。
        「あら、素敵なかんざし」と、薫はそれを髪に挿して「どう?似合う?」と微笑んだ。


        白い花びらと薫の前髪が、晩春のあたたかな風にふわりと揺れる。
        膝の上の剣路が得意げに胸を反らせる。

        その様子は一幅の絵のように美しくて、感極まった剣心はがばっとふたりを抱きしめた。
        弥彦たちに見られていたならば盛大にひやかされるだろうけど、ひとまずそれは、気にせずに。









        もしも、君と出逢っていなかったら。
        ときどき、そんな事を考えることがある。

        もしも君と出逢っていなかったら。そして、もしも君があの日のあの夜の「さよなら」を受け入れて、俺を追いかけてくれなかったとしたら。きっとどう転んでも
        今より「良い」と思える人生は送っていなかっただろうし、それ以前に、とっくに命を落としている可能性だってある。

        それでも、最悪な人生を送るのも落命するのも、それは自業自得だと。
        それだけの罪を犯してきたのだから当然だと。
        すこし前の俺なら、それはそれで仕方ないことだと考えたけれど。



        でも、今は―――



        生き延びたからこそ、新しい命に出逢えた。剣路を得ることをできた。それを、尊いことだと思える。
        そして、この手と剣で、次の世代の未来を守れるのなら。
        ともに歩むことで、君が笑顔でいてくれるのなら―――




        生きていこう。
        君と――― 一緒に、ずっと。













        了。





        2025.05.14






                                                                                                    モドル